今日は旧歴の四月八日、中国民間伝統の節日ーー「浴佛節」である(日本では灌仏会としてよく知られている)。本山がどんなお祝う行事が行われるのかとある人に聞かれた。そのご質問はごもっともだ。一言二言が説明できない。「浴佛節」は諸々佛菩薩生誕と似って、戒律経典上の初一(旧歴一日)十五(旧歴十五日)の布萨誦戒(仏教僧団の持戒行為:比丘、比丘尼半月ごとに望晦日に集まり、『戒本』を読誦して「説戒」という)と違い、すべての寺院が固く守り、同じ日に法事を含むの各種行事が行われる。
観音菩薩の道場においては、毎年旧歴の二月十九日が観音菩薩生誕日、六月十九日は観音菩薩の成道日、旧歴九月十九日は観音菩薩の出家日はすべて重要な節日である。普陀山(観音道場)の寺院が儀式が行うほか、地元の百姓も仏祖の保佑(たすけ)を祈求し、各種の廟会が出現する。乃至現在の地元政府もこの宗教の節日を重視している。しかし、そのほかの地方では、たとえば山西の五台山、四川の峨眉山、安徽の九華山は比較的に特別な日として重視してない。湖北の黄石東方山は薬師仏の道場であり、現在現地は最大な薬師仏の仏像を造っている。これからは東方山は毎年必ず行事があるに違いない、もちろん主に薬師仏と関係する記念日が多い。こうした様々な例は、すべて時と地方などの要素と関係がる。統一性がなく、様々である。
では「浴佛」はどんな意味を指すだろう?釋迦牟尼が生まれた時に天上の九龍が甘露をそそいだ伝説が起源となる。更に遡ると、古代インドのバラモン教も灌佛の風習があり、この風習より前は古インド人の精神への純粋追求である。
仏教が中国へ伝わってから、「浴佛」に関する古い文献上は例えば「たくさんの寺院を建って、灌佛会になると、十数里の道路上に宴席を設け、ご馳走をして、観衆かつご馳走になる人が万人を超え、莫大な金額(億ケタ)を費やす」と記載してある。その後、灌佛儀式が流行してきた。古い文献の記載は「後趙国主石勒(319-332)が息子のために福を祈る為に、灌佛会が行われた。『高僧傳』巻十『佛図澄傳』上は「石勒の多くの幼い子が寺院で育っている。四月八日になると、勒が寺院に出かけ息子の為に祈祷する」また「佛祖統紀』巻三十六宋孝武帝が大明六年(462)条上に「四月八日、帝が内殿に灌佛し僧に食事を供する」がある。『宋書』巻四十七『劉敬宣伝』上は「四月八日、敬宣がみんなの灌佛を見て、母の灌佛と思い頭上の金鏡を外した。悲しく泣いては堪えない」と記載してある。旧暦の四月八日は释迦牟尼佛の生誕日、各地の浴佛の節日はこの日に選定する。少数地方は二月八日、十二月八日、例えば梁の時代『荆楚岁时记』では二月八日が释迦牟尼佛の生誕日となる。『遼史』巻五十三『礼志』の記載では、二月八日が悉达太子の誕生日である。従って、これは時と地方性などの要素と関係がある。
江西の雲居山の真如禅寺は禅宗道場である。禅宗道場は昔、本堂がなく法堂しかない。当代祖師を佛祖としてみなす。『百丈清規』では「佛殿を建てず、法堂だけある者は、佛祖の伝授があると見なして、当代の釈尊なり」『五灯会元』巻五載(丹霞天然禅師)慧林寺に居た頃、寒い気候に遇い、木で造られた仏像を焼いて暖かさを取ることにした。寺院の院主が「なぜ我が寺の木仏を焼いたんですか?」と怒った。師が杖子で灰をかきまわしながら「舎利を取るため」と言った。院主が驚いて「木仏から舎利を取れるわけがない」と言った。師が「舎利がなければ、また二体をほしい(焼く)」と言った。院主が慙愧心になった。また徳山宣鉴禅師が「師が寺院にいれば、仏殿を壊して、法堂のみだ」と言ったことがある。
『大智度論』:「多くの比丘が一か所に集まり、その集団は僧伽と言う。たとえば大きな樹が集まれば、森になる」と書いてある。宋代のあと、僧団の道場が都会へ発展し、設備も整えている。今日に至って、都会に取り囲まれた「道場」が、現代化、電子化、電教化になり、すべてはみんなと良縁を結ぶためであり、根性がよくない衆生を迎え入れる趣旨だ。比較的に言うと、江西の雲居山の真如禅寺のような仏教の伝統を守る家風の禅宗道場には禅堂を最も重視し、禅門の「直指人心見性成佛」を宗旨とする。
今日は四月八日、释迦牟尼佛の生誕日、信者たちが
願いごとがあるため、いつになく真如禅寺が旧暦の一日十五日を除き、朝課と一緒に延生普佛の法事が行われる。朝は仏の生誕日のお祝う法事を行い、昼は来寺の皆のためにご馳走で招待する。そのほかは普段と同じ。灌佛会に対して禅師たちの考えは:灌佛儀式を通じて衆生に仏性が清浄無染であり、本来の面目が目覚めることが目的だ。——心開日光 14:00 2010-5-21